ベイファンとITエンジニアの狭間で

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【#SeibuLions】忘れじのゲーム 2011.10.18 Lions vs Fighters "勝つしか無い,を教えてくれたライオンズ"

自分は小学生の時からベイスターズファンだけれども,大学生の頃は,大学が東京の西部だったり,
大学での生活やアルバイトが忙しく,折しも石井琢朗鈴木尚典多村仁と高校時代のベイスターズを支えた選手が抜けに抜けて年間90敗を続けていた頃で,ハマスタからは正直足が遠ざかっていた.

そんな自分が大学4年生の時に通いつめたのが西武ドームだった.卒業論文で Nostalgia Marketing を取り扱うことを決め,事例分析の対象として埼玉西武ライオンズの継続的な取り組みであった「LIONS CLASSIS」を選んだのだ.

その2011年の7月,僕が西武ドームに足を運び始めた頃のライオンズは最下位に沈んでいた.
それでも,ルーキーの秋山翔吾がダイヤモンドを駆け抜ける姿,
躍動する西口文也
ファンの誰もがチャンスに祈りを捧げる中島裕之
それまでに感じたこと無い,チームの,ファンの一体感にいいなって思ったのだった.

チームは着実に順位を上げながら迎えたこの試合が,僕はきっと一生忘れられないと思う.


10月18日は,9月に台風上陸で中止になった試合の振替の開催となったレギュラーシーズン最終戦.
そして,何を隠そう,3位まで0.5差につけたライオンズはこの試合に勝ち,同日のバファローズが負ければ大逆転でのクライマックスシリーズ進出を果たせるという,すべての舞台が揃った日だった.

この時期,自分は卒業研究の一貫で,西武ドームでファンにインタビューをお願いしていた.どうしてライオンズのファンになったか,どんな選手が好きか,今のチームをどう思うか…
この日はまさに「最後のデータ収集」の日だったのが,口を揃えてファンがインタビュー後の雑談で言ったのが「今日は勝つしか無いですからね.」だった.

それまで,「今日は勝てればいいなぁ」「誰が投げるんだろうなぁ」「村田の本塁打が観たいなぁ」と思いながらハマスタに通っていた自分にとって,
恥ずかしながら,「勝ちたいな」や「勝たなければいけない」ではなく,「勝つ,しかあってはいけない」という気持ちがあるんだ,とちょっと感動したのだった.

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試合は,この年の先発投手陣では岸・涌井にも引けをとらない安定感を見せていた西口が先発.
日本ハムは,シーズン最終戦ということでダルビッシュの先発も予想されたが温存,吉川がマウンドに立つ.


試合は初回,中村剛也本塁打でライオンズが先制する.

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2011年の中村剛也は,驚異的だった.
この年導入された「統一球」によって,球界は軒並み投高打低.何人ものスラッガーが「統一球に潰された」と言われた時だった.
その中にあって,中村剛也はこれがシーズン最後となる48本目の本塁打を放った.
それも,力任せのフルスイングではない,タイミングと技術の賜物のような,高い放物線を描く,将に「美しい本塁打」だった.
この日,自分は三塁側の,一塁と本塁を結んだ線上あたりの中段の席で見ていた. (わかりづらいか^^;)
中村剛也の48号本塁打は,まさに彼の名刺代わりのような打球だった.
バカでかいアーチをを見上げながら,
「きっと…きっと勝てるかも!!」
と思って,どこからか,なぜだか分からないけど勇気が湧いてきたのを覚えている.
中村が三塁あたりを回るころになって,スタンド全体が白いフラッグを振っていて,「ファンが信じるってこういうことか」と知らしめられた.
(ちなみに,白いチームスローガンフラッグはこの日入場全員に配布されていたように記憶している.)

ホセ・フェルナンデスも続く.

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西口は工藤隆人にランニング本塁打を浴びるなどして2失点するも,8回を投げきる. (記録上は外野手の失策がついていたかもしれない…)
8回を終えてマウンドを降りてくる西口に,自然と,内野スタンドの誰もが立ち上がって拍手で彼を迎えた.
下を向きながら,しっかりとした足取りでベンチに戻ってくる華奢な身体が,最高にカッコ良かった.


牧田和久がこんなに荒れるとは思わなかった.
この年,シーズン序盤から先発ローテーションの一角として安定した投球を見せていた遅咲きのルーキーは,しかし援護に恵まれなかった.
時の監督渡辺久信は,典型的な「先発ができればリリーフも出来る」という思想の持ち主だった.
牧田に勝ち運が無いと見ると,すぐさまクローザーに配置転換.これが上手くハマった.
正直に言えば,自分が西武ドームに通い始めた頃には,すでに牧田は抑えとしての地位を着々と築く過程にあった.

その牧田が,単打3本で無死満塁のピンチを作ってしまう.ナンテコトダ,と思わずにいられなかった.
ブルペンに目をやると,石井一久岸孝之が急いで肩を作り始めた.
シーズン終盤に勝ち切れない投球が続いた石井一久は,これまた渡辺久信の判断によりシーズン終盤にセットアッパーの役を担っていた.
思い出すと,こういう起用が当時の西武はかなり当たっていたような気がする.

1死をとった後,代打に出てきたのは脚を痛めてスタメンを外れていた糸井嘉男
絶体絶命以外の何でもない場面の初球,当時すでに天才打者と呼ばれ始めていた糸井が振り抜く.


【2011.10.18】祝CS進出!9回表ノーカット 西武-日本ハム 最終戦 - YouTube

この修羅場を救ったのは,同じくルーキーの秋山翔吾だった.
栗山巧が定位置を掴んでいた外野陣であったが,それ以外のポジションは激しいポジション争いが繰り広げられていた.
今では想像もつかないが,浅村栄斗が左翼を守ることもあったし,坂田遼の打撃にもワクワクさせられた.
それでも,光るものが多かったのは秋山翔吾だった. 脚力,シャープなスイング,守備範囲.ついには栗山巧を左翼に追い出し,中堅手としての先発出場を勝ち取る.
思えば,そんな秋山の成長がなければ,この場面で同点,勝ち越しを許していたかもしれない. (栗山じゃ捕れない,と言っているわけではなく)
伸るか反るかの大一番で,こんなプレーが飛び出すのか…僕は正直に言ってちょっと泣きそうになりながら,興奮も隠しきれず,秋山の名を叫んでいた.

最後は牧田が無事に締めてゲームセット.
大阪で行われていたオリックスの敗戦を球場全体で見届け,埼玉西武ライオンズクライマックスシリーズに旅立っていった.


あまり言いたくはないが,当時のベイスターズファンだった自分に「負け犬根性」があったのは否定出来ない.
どれだけ足掻いても好転しない状況に,「そういうものだから」と直視するのを避けていた.
正直に言えば夏場に取材を始めた時のライオンズが最下位だと知って,「そうか今年は弱いのか」としか思えなかったし,「僕が関わろうとするから弱いのか,申し訳ないな」なんて思ったことがあったのも事実.
それをすべてひっくり返してくれたのが,2011年の埼玉西武ライオンズだった.

着実に足場を固めて快進撃を演じるチームを見て,それまで知らなかった感覚を覚えた.
この年に生まれ幾多の伝説を呼んだ「チャンステーマ4」は,そんな感情を覚えた所沢の左翼席を思い出させてくれるから,思い入れが深い.

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このときの記憶があるから,今になってベイスターズを応援していても,何も悲観しなくなった.
選手は信じればやってくれる.選手だって自分の誇りや人生を賭けているんだから.
そして苦境に立たされても,目の前の壁を乗り越え続ければ道は開けるのだから.
そのことを教えてくれた2011年の埼玉西武ライオンズは,きっといつまでも自分の記憶から消えないんだろう.